Wikipediaによると、

等価交換(とうかこうかん)とは等しい価値を有するものを相互に交換すること。

とあります。

アニメ『鋼の錬金術師』でよく出てくる台詞にこの「等価交換」があります。

等価交換と錬金術

このアニメ。テレビ放映され始めてからよく観てます。

「錬金術」といえば、初めてこの言葉を知ったのはだいぶ昔に読んだ小説(今も持ってるけど)でした。

フランス国王ルイ14世時代の物語で「アンジェリク」っていう長い長い文庫小説。

その中で、後々旦那になる不気味な貴族(たしかビッコをひいていて顔に焼けど跡がある)が、化学に基づいた正当な金精製をしているのを世間から怪しまれ、錬金術=魔法使いとみられて弾圧されるみたいな部分があって。

世界的ベストセラーを記録した、フランス発の歴史大河ロマン。細やかな時代考証と、大幅な加筆修正が施された“完全版”を初邦訳。17世紀フランス、太陽王・ルイ14世時代を背景に、数奇な運命に翻弄される少女アンジェリクの半生を描いた傑作長編。

「錬金術」という言葉になんとなく抵抗を残しつつこのアニメを観はじめたんですが、まあそれなりにおもしろい。

エドワードとその弟のアルフォンスは、幼き日に亡くなった母親を思うあまり、死んだ人間を蘇らせるという錬金術最大の禁忌、人体錬成を行ってしまう。しかし錬成は失敗し、エドワードは左足を、アルフォンスは体全てを失う。己の右腕と引き換えに、かろうじて弟の魂を錬成し、鎧に定着させることに成功したが、その代償はあまりに大きすぎるものであった。

話が反れました。

テーマは「等価交換」です。

とっても自然でいい言葉だと思いませんか?

世の中は、最終的にはこの「等価交換」で成り立ってると思います。

上のアニメの主人公は、死んだ母親を生き返らせるという禁断の行為(等価交換の法則に反する行為)を行ってしまった代償に、自分の右手右足と弟の全身を失ってしまった。

等価交換と現代社会

昨日最終回になった感動ドラマ「白い春」

では、恋人の治療費を得るために殺人を犯す訳ですが、その代償として刑務所で過ごしただけでなく、殺人で得たハズのお金はたった一人の親友に奪われ(裏切られ)、肝心の恋人は死に、知らぬ間にに産まれていた実の娘の父親になることが適わず、挙句の果てに殺した相手の息子から殺されてしまう。

それだけだとアレなんですが、娘と出会って過ごすうちに膨らんできた愛情と自分のしたことに対する後悔にに苦しみ、娘とその家族(他人)の幸せを願って身を引く心境にまでなった所で、殺した相手の息子から刺され、その息子に懺悔しながら死んでゆくんです。

非常に切なかったのですが、結局最後は「等価交換」なんだな~というのが頭に浮かんできました。

自分の娘とは知らず出会ってしまった“不器用で最悪な男”。そして、その少女を実の娘のように育ててきた“真面目で善良な男”。自分と愛する人との間に娘がいたと初めて知ったとき、そして、その娘を育てている父親がいると知ったとき、その"最悪な男"は、何をどう感じるのか?このドラマは“究極の親子愛”をテーマに、不器用ながらもひたすら娘を愛する姿をユーモラスに描く、感動のヒューマンドラマ。

で、「等価交換」

現代の日本やその他多くの国は資本主義社会。
つまり、世の中の全ての物や無形物、人の命も含めた全ての対象の価値は「お金の額」に変換できる(する?)、というもの。
交通事故後の示談の解決方法、殺人事件の賠償、諸々の慰謝料・・・

「お金には換えられない!そういう問題じゃない!」と叫んでみたところで、「じゃあ、いくら(金額)なら納得できますか?」って聞き返されます。
全て金額を物差しにしてはじき出されます。

で、短絡的に解釈されたりすると、「人間にとって一番大切なものはお金」となり、「お金持ち」=「人間の価値が高い」ということになり・・・
結果、子供の教育現場でまで「お金をたくさん稼げる人になることを目標にという尺度」で教育が施されているように見えます。

長~い人類の歴史の中で築かれてきた、今の所一番近代的なシステムが民主主義・資本主義社会なんだろうし、お金が現時点ですごく大切ということに異存はないのですが、このシステム自体が最良だとはとても思えません。

個人的には、お金が必要の無い社会がいいと思うし、どうやったらそう出来るかって考えたりもしますが、現実問題そのシステムの中で生活している訳だから従う他ない。

前置きも長くなってしまいました。

「お金」と「等価交換」

どうも、特に日本人は、お金・経済社会の最先端に接している割に、それらに関する価値感がおかしくなってしまっているように思えるんです。

私の経験の範囲で例えればこんな感じ。

私はダイビングやそれに関するインストラクターという仕事をしています。
仕事柄、ダイビングライセンス等の講習という無形のもの(といってもカードという有形物があるが)を、有限時間内の講習という商品として販売しています。

講習中にその時の私の説明では納得出来ないことや理解できないことが出てきたとして、私が気付かずにそのまま講習を先に進めようとすると、
日本人以外の方は殆どが、「ちょっと待って!」「どうして?」「わからない?」・・・
という感じで、必ずストップかけられて、納得するまで説明を求められます。

また、受講者が上手く出来ないことがでてくると、「出来るようになりたい!」「出来るまで教えて欲しい!」
という反応になります。

当然のことだと思います。
その方はダイビングの講習を受けるために代価を払ってる訳だから、その講習から支払った代価分以上のことを自分に取り込みたいという、はっきりとした「等価交換」を求めているわけです。

ところが一方、十中八九の日本人は、解らなかったり、出来る必要があることが出来なくても、先に進めて「早く終わる」方が、なんと信じられないことに喜ばれるのです。
理由は、極端な言い方をすると、お金を支払って休みにわざわざ時間を作ってまで受講期間内の拘束をされにきているんだから、期間内に(出来るだけ早く)カードを発行してくれるのが当然!
出来ないことがあってカード発行してもらえなかったら、そのインストラクターや店は悪!
ということなのでしょう。

講習中に、受講者が上手く出来ないことが出てくると、「出来なくてもまけて欲しい!」「これ、どうしても出来ないと駄目ですか?」となります、日本人。
解らないところを自分から質問することは殆どありません。
(たまに質問を受けたり意欲的な人に出会うと嬉しかったりします)
まあこれは極端な事例なのですが。

要するに、日本人は「出来るだけ楽チンに出来るだけ早く目的(見せかけだけでも構わない)を達する」
ということに一番の価値を置いていて、それを達成できるのであれば、その中身は二の次三の次ということなんでしょうか。
そういう価値観を基本に考えると、さらにその上に「出来るだけ安価で無駄なく!」というのが当然上乗せされる。

これってどうなんだろう。
どうして?と私は思います。
それなりに高い講習受講料を支払って受講した講習内容自体が、支払った金額に見合ってなかったら・・・
いくら早く終わっても納得できませんね~私なら。
まして、出来る必要があることを出来ないまま終わらせられたりしたら、怒りますよ。それこそ金返せ!って。
ただし、支払った金額があまりに安い値段だったとしたら・・・そうされても仕方のないことですよね。「等価交換」の法則のとおりです。
そこは諦めて別のところで正当な代価を払って受けなおすか、違う代価を支払う道を選びます。私なら。

車の免許に置き換えて考えてみてください。

一般的な教習所より何週間も期間が短くて、半分の値段で免許が手に入った!
としても、学んだ中身が無かったり、受講中に四六時中車をぶつけたり、単車でいつもひっくり返ったりしてたのに、「いいよいいよ」って問題解決されないまま先に進められていくうちに気がついたら修了!って感じで得た免許に、何の意味何の価値があるんだろう。
そうやって得た免許で1人前よろしく、人と同じように車を走らせることなんて怖くてできません!

私なら、間違いなく別で受けなおすか、問題解決のためのトレーニングに代価を払います。

すると、結局より多くの時間と金が浪費される結果になる。

「安物買いの銭失い」

の典型ですね。

こういう感覚でいいんだろうか?ニッポンジン!?

遅くなってしまったので、続きはまた次回。

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