地球温暖化、鯨やマグロ漁規制など環境保護をうたって活動している団体の抗議活動なんかがよく耳に入ってくるし、今月に入っても、和歌山県太地町のイルカ漁を告発した映画「ザ・コーヴ」がアカデミー賞を受賞したそうで、我々のように自然を相手に仕事するものとしては、色々考えさせられます。

ちょっと環境問題・エコロジーについて考えてみたいと思います。

環境問題・エコロジーについて考える

こんな面白い記事がありました。
「エコロジーという自民族中心主義 - 池田信夫 blog」

地球からみて、人間ほど自分都合な論理で人間以外の物をめちゃくちゃにしてきた生物はいないと思う。
その人間主観の論理も、時代とともに移り変わり、社会によって異なるが、いつも、まず「その時代の人間(民族・宗教)にとって~」という考えから始まる。

環境保護団体も結局同じで、「”特定の”動物を守りたいと考える人間にとって~」という論理だろう。

上記記事の最後に、
「無数の生命を虐殺し、自然を破壊することは近代人の原罪であり、この罪から無縁な人間はいない」
とある。

その通りで、これを棚にあげて物を言う資格は、少なくとも人間には無い。

一方で、自然とは?という定義をWikipedia-自然から引用すると、

自然(しぜん)には次のような意味がある。

1.人為が加わっていない、あるがままの状態、現象、およびそれによる生成物
2.1の意味より、山、川、海など
3.1の意味より、人間を除く自然物および生物全般
4.1の意味より、ヒトも含めた[1]天地・宇宙の万物
5.意識(意図)しない行動
6.不思議だったり、不可解だと思われることがない事。

とある。

ここで取り上げている自然は1~4に当たりそうだが、よく考えてみると1.の「人為が加わっていない、あるがままの状態、現象、およびそれによる生成物」など、もう存在しないのではないか!?
と思えてしまう。

人間がこの世に産まれてから以降、自然というのは常に人の手が加えられながら歴史を歩んできているので、人為が加わっている自然が現代の自然だと言える。

今現在、環境保護の名のもと、山に木を植え、水を綺麗にし、サンゴを接着したりしているのも、結局それが必要と考える人間社会都合の論理で実施されている擬似自然みたいなものだ。

もし、世界中の人間が「人間都合」だけでなく、人間も含めた「地球(宇宙?)都合」の論理で考えることが出来たとしたら、「よりよく新しい自然」が自然と形作られていくように思えるのだが...

その視点からの研究・開発が進み、その結果が自然の一員としての人間の利益にも繋がればな~とか思います。

特定の動物を愛護するとか、壊れたものを元に戻そうとか(元にはもう戻らないのに)、そういう小手先の手段ではなく...

「人新世」がホットワードとなった今日、人間や都市、テクノロジーを含みこむ新たな概念として「自然」をとらえ直すこと、本書は既存の概念枠組みを刷新し、共存の哲学を志向する、21世紀思想の幕開けを告げる思想書です。

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